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街・町・まち物語(14) 悲しき海の女王たち

2018.06.15

かつて四国と本州は瀬戸内海を隔てて「近くて、遠い」位置にあった。香川県と岡山県をつなぐ「瀬戸大橋」(香川県坂出市-岡山県倉敷市)が出来て、人の往来と物流は劇的に変わった。今年はその「瀬戸大橋」が開通して30年を迎えた。徳島ルートの淡路島と明石を結ぶ「明石海峡大橋」も開通20年で、ともに祝賀の記念式典が開かれた。もう一つの「しまなみ海道」も来年は20年になる。世界的にも評価の高い巨大橋がどうして3本も実現したのか。そこには今は語られることが少なくなった”海の女王たち”の悲劇があった。

【瀬戸大橋開通30年】

写真①瀬戸大橋開通30年

『1日7万台』

総額1兆1200億円、着工から9年半かかって1988年(昭和63年)4月に開通した全長9・4㌔㍍の瀬戸大橋。延べ作業員900万人、鋼材70万トン、コンクリート280万立方㍍が使われ、わが国の最先端技術がフル動員された。つり橋部分のケーブルを錆から守る「ケーブル送気乾燥システム」という画期的な技術は、東京のレインボーブリッジなどにも採用され、「技術大国日本」の誇りをかけた橋だった。

この30年間に利用した車は延べ1憶7000万台にのぼり、1日当たり平均で2万2533台。記念式典では、四国の流通や産業振興に大きく寄与したと称えられ、最近ではインバウンド(訪日観光客)増加にも役立っているという声が聞かれた。

10年後の1998年(平成10年)4月に開通した明石海峡大橋(兵庫県淡路市-神戸市)は総工費5000億円。特徴ある2本の主塔間は1991メートルあり、世界最長のつり橋だ。利用の車は延べ2億台を超え、1日当たりの通行量は瀬戸大橋より多い3万7084台だ。

【明石海峡大橋開通20年】

写真②明石海峡大橋開通20年

来年5月に20年になる本四架橋3つ目のルートのしまなみ海道。正式には「西瀬戸自動車道」は9つの橋からなる総延長46・6キロメートルで、総工費7500億円が投じられた。1日平均の通行量は7748台と少ないが、歩行者や自転車・バイクだけでも通行でき、風光明媚な島を走っていくサイクリングロードとして国際的にも注目されている。

3本の架橋には合計で1日平均7万台近くの車が走っており、まさに本州と四国の大動脈になった。

『呪われた船』

巨大な連絡橋実現への引き金になったのが、宇野港(岡山県玉野市)と高松港を結んで運航されていた宇高連絡船「紫雲丸」(1449㌧)の衝突・沈没事故だった。

【紫雲丸】

写真③紫雲丸

1955年(昭和30年)5月11日午前6時40分、濃霧警報が発令されて海上の視界が100㍍ほどしかきかない中を、高松港を出て宇野に向かった「紫雲丸」には乗客781人と乗員60人が乗っていた。出港からわずか16分後、宇野から向かって来た「第三宇高丸」(1282㌧)と衝突。「紫雲丸」はすぐに沈没をはじめ、乗客は海に投げ出され、「第三宇高丸」に乗り移った者もいたが、犠牲者は168人にのぼる大惨事となった。

犠牲者のうち100人が修学旅行中の小中学生だったことが衝撃を与えた。引率の教員と父母の計8人もともに海の藻屑と消えたが、子どもの犠牲者が多かったのには理由があった。我先に逃げようとする大人たちに押されて逃げ遅れたのだという。救命胴衣の収納庫が高い場所にあって手が届きにくかったこともある。家族への大事な土産を失わないようにしているうち退避が遅れたという証言もあった。100人のうち81人が女子だったことはそれを裏付けているだろう。

【紫雲丸事故を伝える新聞記事】

写真④紫雲丸事故を伝える新聞記事

当時の報道を見ると、いったん「第三宇高丸」に乗り移ったものの、子どもたちの姿がないことに気づいて、制止を振り切って再び「紫雲丸」に戻り、そのまま姿を消した教員もいた。船長も部下から退船を促されても拒否して最後までブリッジに残って避難命令を発し続け、海に消えていった。昔がよかったとは言わないが、しかるべき立場の人たちの責任感が違う時代だった。

さて、太平洋戦争が終わったのが事故の10年前。平和日本の再建には交通網の整備が必要だったが、宇高航路には小さな老朽船しかなく、GHQ(連合国軍総司令部)にかけあってやっと許可されたのが大型船第1号の「紫雲丸」で、1947年(昭和22年)に就航した。ところがこの船、わずか9年間に5度も事故を起こしている。最初が1950年(昭和25年)に直島水道付近で貨物船の「鷲羽丸」と衝突・沈没し、乗客・船員72人のうち7人を死亡させている。

船体は引き揚げられて復帰したが、その5年後に引き起こしたのが「紫雲丸事故」である。さらに再び海底から引き揚げられて使われることになるが、「この船は”死運丸”じゃないのか」と気味悪がられ、船名を「瀬戸丸」に変えた。ところが、またしてもそれから5年後の1960年(昭和35年)に高松港口で衝突事故を起こし、相手の船が沈没している。”5年のジンクス”にたたられた船だった。

結局、就航から19年でお役ご御免となって、ある工場に売却された。スクラップにされたと思われていたところ、広島・宇品港の浮桟橋に使われていたことがわかり、「女王」のあまりに変わり果てた姿に涙する関係者もいたという。

『魔の海域』

瀬戸内海は船の往来が半端ではない。島が多いうえに大型船の前を小型船や漁船が堂々と横切っていく。特に神戸や大阪という大都市に近い海域は危険で、勢い、海難事故は少なくない。

「紫雲丸事故」の10年前にも本四架橋の必要性の声が高まったことがある。1945年(昭和20年)12月9日に明石海峡で起きた播淡連絡汽船「せきれい丸」(34㌧)の事故だった。

この日、明石海峡は晴れあがっていたが、台風並みの突風が吹き荒れていて、船長は欠航を考えていた。しかし敗戦直後で食糧難が深刻な時代。淡路島の岩屋港には神戸方面に買い出しに行く人たちや、野菜や魚をうず高く背中に乗せて売りに行く行商の人たちが群れをなして待っていた。

見かねた船長が出航を決断すると、全長わずか19㍍の古い木造船(乗員5人)に定員100人の3倍以上の344人がなだれ込むように乗り込んできた。重く、不安定な船体は案の定、出港して間もなく、突風にあおられて転覆、沈没してしまう。乗客たちは荒れた冬の海に投げ出されたから悲惨だった。生存者はわずかに45人。死者・行方不明者304人で、遺体が見つかったのは17人だけだった。いかに海が荒れていたかがわかる。

淡路島・岩屋の鳥ノ山展望台に慰霊碑が建てられたのは事故から42年もたっていた。明石海峡大橋を造ることになり、工事の安全を祈願してのものだった。関係者が不吉な海だと考えたのも無理はない。

【せきれい丸事故の慰霊碑】

写真⑤せきれい丸事故の慰霊碑

この事故のちょうど2カ月前の10月9日に、向かいの神戸港の沖合では「大成丸」(2287㌧)が沈没する事故が起きている。戦争が終わった直後で、神戸港には米軍が敷設した機雷がいたるところに浮かんでいた。「大成丸」はそれに触れて沈没、実習生31人を含む46人が死亡した。

「大成丸」は日本が誇る4本マストの大型帆船だった。1904年(明治37年)に神戸の造船所で造られ、戦争中は軍事物資の輸送などに駆り出されたことはあったが、日本の海の男たちを育てる商船学校の練習船として使われ、日本で初めての世界一周航海をはじめ63回の遠洋航海を行うなど「海国日本」のシンボル的な存在だった。

【大成丸】

写真⑥大成丸

やっと戦争が終わって再び本来の船員養成の任務につくべく、修理のため三菱神戸造船所に向かう途中に沈んでしまったのだから何とも哀れだった。

『幻の海底トンネル案』

四国と本州を結ぶ3つのルートはいずれも架橋となったが、実はもともとは海底トンネル案が有力だった。

連絡橋を造ってほしいと政府に初めて訴えたのは1914年(大正3年)にさかのぼる。当時の帝国議会に「鳴門架橋及潮流利用発電調査に関する建議案」が提出され、徳島出身の代議士が熱っぽくその必要性を訴えた。しかし、莫大な費用と難工事が予想され、一笑に付されてあえなく否決。代議士は「諸君の目は豆のようだな」と捨て台詞を吐いて退場してしまう。

それから25年後、明石・鳴門西海峡に鉄道トンネルを掘る計画が立てられ、ようやく動き出すかと思いきや、軍艦の航行に支障をきたすと海軍が反対して、またしても頓挫する。

そして「せきれい丸事故」が起き、1948年(昭和23年)に海底トンネル案が浮上した。明石から淡路島を経て鳴門までを結ぶ「明石海底トンネル計画」が立てられ、須磨から淡路島までの14㌔㍍をトンネルにして、そこから先は鉄道を敷設し、鳴門との間にはつり橋を架けるという壮大な計画だったが、これも立ち消えになる。

本格的に動き出すことになったのは「紫雲丸事故」からだった。事故から2日後に「淡路縦貫鉄道計画」が浮上し、運輸大臣が事故について「お詫びの言葉もない」と謝罪し、「明石海底トンネル計画の早期実現をはかりたい」と表明した。その後は、架橋の方が現実的だとなり、「本土淡路四国連絡橋架設促進協議会」が作られ、1970年(昭和45年)に「本州四国連絡橋公団」設立へと進み、3本の架橋が実現したのだ。

【3本の連絡橋でつながった四国と本州】

写真⑦3本の連絡橋でつながった四国と本州

穏やかな瀬戸内の海。そこをまたぐ美しい巨大な橋。今でこそ本州の一部になったかのように四国は便利になったが、最初に本四架橋を言い出したのは香川県のある県会議員だった。讃岐鉄道の開通祝賀会の挨拶で突然、「島々を架橋連結すべきだ」と言い出してみんなを仰天させたという。1889年(明治22年)5月のことである。瀬戸大橋が開通したのはそれから99年後。何事も壮大な事業には1世紀の時間がかかるということだろうか。  文=ATOM

【予告】コラム「街・町・まち物語」は、基本的に第1、第3金曜日に掲載します。7月6日掲載の次回は、がんの検診受診率が極端に低く、高齢化率の高い大阪で、住民の「命」と向き合い続けてきた医師、濵崎寛さんに大阪がどうしたら「健康都市」になれるのかを聞きます。ご期待ください。

【コラム「街・町・まち物語」の過去記事一覧】

▽第13回「今、図書館が面白い!(関西の最新図書館事情)」(18年6月1日)

▽第12回「中小企業を支援する経営コンサルタント=澤村 文雄さん」(18年5月18日)

▽第11回「「幸・福」に学ぶ 2つのミュージアムを訪ねて」(18年5月11日)

▽第10回「なにわのプチクルーズ」(18年4月20日)

▽第9回「大阪再生は文化の立て直しから=池田 知隆さん(大阪自由大学理事長)」(18年4月6日)

▽第8回「甲子園、ネット裏の”熱闘”」(18年3月16日掲載)

▽第7回「大阪城のレジリエンス力」(18年3月2日掲載)

▽第6回「行列のできる居酒屋=立山 雅夫さん(飲食文化研究所代表取締役)」(18年2月16日掲載)

▽第5回「すみれと桜 タカラヅカの鎮魂歌」(18年2月2日掲載)

▽第4回「出た!大阪・梅田に”亡霊たち”が」(18年1月19日掲載)

▽第3回「お笑い芸人に学ぶ関西の街づくり=吉村 誠さん(元朝日放送プロデューサー)」(18年1月5日掲載)

▽第2回「不思議な『浪華(なにわ)の忠臣蔵』」(17年12月15日掲載)

▽第1回「天才マンガ家は堂島から誕生した」(17年12月1日掲載)

2018.06.15

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