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街・町・まち物語(19)幻の「大坂湾戦争」を追う

2018.09.07

明治維新から今年は150年。その年に神戸港と大阪港が開港した。大政奉還から明治へと時代を開く契機になったのは、ご存知の通り、江戸城の無血開城で、それを実現させたのがNHK大河ドラマ『西郷どん』の西郷隆盛と勝海舟だ。坂本龍馬ら維新の立役者たちの活躍でドラマはいよいよ佳境に入ってきた。その幕末にドラマでは描かれないイギリス艦隊との「大坂湾戦争」の危機があった。起きていれば阪神間は焦土と化し、神戸や大阪の街の姿はまったく変わったものになっていただろう。その顛末を追ってみる。

【神戸港】

写真①神戸港

『天保山の黒船騒動』

ことの発端は大阪・天保山沖に突然現れたロシア使節プチャーチン提督が乗る「ディアナ号」だった。1854年(安政元年)9月18日、「おろしや」と書かれた旗を掲げた3本マスト、52門の大砲を備えた、最新鋭の2千トンの巨大戦艦の出現に浪速の街はひっくり返る騒ぎとなった。総勢1万5000人の兵と5000隻の小舟で一帯を取り囲むが、歯が立つわけがない。1年前にペリー率いるアメリカの黒船が浦賀に来航して徳川幕府を震え上がらせたばかりだが、今度はもう一つの大国ロシアが朝廷おわす京都を狙ってやって来たのだ。

【ロシア軍艦進入の図】

写真②ロシア軍艦進入の図

デ号は日露和親条約の締結を求めて天保山沖合2㌔に居座り続ける。下田で交渉に応じるからと約束して2週間後にやっと引き揚げさせたが、紀淡海峡がやすやすと破られたことに衝撃を受けた幕府は、大阪湾(摂海)の防備に砲台設置を決める。天保山、友ケ島、舞子、西宮をはじめ沿岸にお台場を造っていくが、京都にも攻めて来るかもしれないという恐怖心から淀川にまで砲台を設置する。楠葉(枚方市)、高浜(島本町)である。今も舞子や楠葉には台場跡、堺の大浜公園に石垣が残る。大坂城の天守閣前にある大砲は天保山砲台に据えてあったもので、明治維新後に移されたと言われている。

『勝海舟に惚れた西郷隆盛と坂本龍馬』

勝海舟(1823-1899年)が長崎海軍伝習所に行くように命じられたのはデ号来航の翌年だ。幕府はオランダから海軍創設を勧められ、幹部養成の一員として勝は参加する。その後は幕府海軍の中核として咸臨丸で渡米するなど軍艦を縦横無尽に操って活躍したイメージがあるが、実は船酔いがひどくて、長崎の航海訓練ではずっと寝たままだったというから意外だ。

【勝海舟】

写真③勝海舟

勝と西郷隆盛(1827-1877年)との出会いは1864年(元治元年)9月11日、大阪でのことだった。軍艦奉行になった勝を宿に訪ねて来た西郷は、二度目の島送りだった沖永良部島から戻されて間もない時期で、「大島吉之助」と名乗っていた。勝42歳、西郷38歳。勝にいっぺんで心服した西郷はすぐに盟友の大久保利通に「ひどくほれ申候」と手紙で書いて知らせている。

この出会いが1868年(慶応4年)の江戸総攻撃をめぐる談判、そして無血開城につながり、日本の歴史を変えるのだが、2人の友情は終生変わることはなかったという。西南戦争に敗れ、朝敵として城山で自刃した西郷の「留魂碑」が2年後に東京に建てられることになった時、勝は碑文を書く。「ああ君よく我を知れり、しこうして君を知るまた我にしくはなし」と。

勝と坂本龍馬(1835-1867年)の出会いは西郷より2年早い、1862年(文久2年)12月9日で、「軍艦奉行並」という役職だった勝に紹介状を持って屋敷を訪ねている。勝が滔々と語る世界情勢や海軍の必要性に龍馬は感服し、以後はずっと勝の弟子として動くようになる。ドラマではよく、攘夷派の龍馬が開国論者の勝を斬るために行ったのだが、人物の大きさにかえって弟子にしてほしいと頼むと描かれることがあるが、あれは間違いのようだ。

『大坂湾戦争』

海防の大任を負うことになった勝は、砲台整備で守りに徹する消極的な幕府中枢の方針に不満を持っていた。自国を守るには自前で軍艦を造り、優秀な人材を育てる海軍力の増強が不可欠と考えて積極策を主張していたのだが、誰も耳を貸そうとしない。そんなところに「生麦事件」が起きた。

1862年(文久2年)8月21日、神奈川県の生麦村付近を通っていた薩摩藩の島津久光の行列の横を馬に乗ったままのイギリス人4人を藩士が殺傷した事件だが、イギリスから10万ポンド(30万両)の賠償金と責任者の処罰を強く求められ、幕府はうろたえる。なすすべもなく時間が流れていくばかりの翌年の3月、大阪にいた勝は幕府の弱腰を非難し、次のように自説を展開したのだ。イギリスには賠償金を払ってやればいい。その代り、相手も無礼だったのだから国交を断絶し、条約を破棄する。そうすればイギリス艦隊が攻めてくるだろう。攻撃してくれば迎え撃つのみだ。「今この際におよび何を恐れてか戦わざらんや」。勝は戦争をせよと叫んでいるのだ。

だからといって勝はイギリスに勝てると考えたわけではない。いや、日本が敗けるに決まっていると言うのだ。一戦を交えて敗ける。その時の日記には「天下の人民をして勝算なきことをしらしむべし」と書いている。空理空論の攘夷論が吹っ飛んで、日本が海防に本気になるだろう。それが将来の日本のためになるという深謀遠慮の考え方だった。

ところが幕府はこっそりと賠償金を払ってしまう。その弱腰と無策ぶりに激怒した勝は「落涙止めがたく憤怒衝髪」と日記に書くが、すべてはあとの祭り。ただ、犯人の引き渡しを拒否する薩摩藩との決着がついていないイギリスは、4カ月後に軍艦7隻で鹿児島湾に押しかけ砲撃する。この「薩英戦争」で鹿児島の城下は火の海と化し、砲台は全滅し、薩摩藩は外国の軍事力の強さを思い知らされる。しかし薩摩藩はそれで幕府に見切りをつけ、かえってイギリスとの関係を深め、力をつけて維新につなげていったのだから、勝の先見の明はなかなかのものだ。

『3つあった海軍塾』

海軍の本拠地は神戸にしようと勝は考えた。経済の大阪、朝廷の京都との距離感。神戸港は山に囲まれ、大きな船が出入りできる水深があり、申し分ない。そこで勝は一計を案じる。

勝が「戦争も辞せず」と自説をぶちあげた翌月のことだ。大阪湾の砲台の設置状況を視察するという名目で、まだ16歳だった14代将軍家茂を軍艦に乗せ、その航海中に神戸に「海軍操練所」をつくりたいと持ちかける。勝を信頼しきっていた家茂は承諾。勝はすぐさま神戸村小野浜にあった「船たで場」という船底の船虫駆除や付着する貝殻をとる場所で建設にかかる。

海軍操練所というのは明治になってから東京・築地にも出来、海軍兵学校の前身ともいえる士官養成学校だった。大阪にあった湾岸警備の「大坂船手会所」を解体して1864年(元治元年)に開校した神戸の操練所には各藩から優秀な人材が200人以上集まったという。

【神戸海軍操練所の見取り図】

写真④神戸海軍操練所の見取り図

海軍操練所があった神戸港に近い京橋北詰には現在、記念碑が建っている。石碑でなく戦艦の錨を使っているので「錨記念碑」と呼ばれている。

【神戸海軍操練所の記念碑】

写真⑤神戸海軍操練所の記念碑

またそこからすぐ近くの公園の一角には「海軍営之碑」のレプリカがある。こちらは勝が海軍をつくった経緯を簡潔に書いた文章が刻まれていて、一見の価値はある。

実は勝はこれとは別にあと2つの「海軍塾」をつくっている。1つは大阪市中央区淡路町にあり、勝が旅宿にしていた「専称寺」に置いた「大坂海軍塾」だ。神戸に移る前のわずか半年間だけあった塾で、現在はオフィス街に小さな碑がぽつんと立っている。ビルが建設中で碑は見ることができないが、碑には「坂本龍馬や近藤長次郎らはこの国を守るための海軍技術を学びました」と書かれている。

【大阪の海軍塾のあった場所】

写真⑥大阪の海軍塾のあった場所

もう1つは「神戸海軍塾」だ。幕府の正規の海軍操練所とは別に私塾として神戸の生田神社に近い勝の屋敷につくたもので、勝に命じられた龍馬が越前福井藩に資金援助の頼みに行っている。ここは龍馬が塾頭になったが、修業生たちの中には相当暴れん坊の若者も多かったらしく、勝も頭を悩ませたらしい。

しかし、勝が思わぬ嫌疑をかけられて突然失脚し、せっかくの操練所も海軍塾もわずか1年足らずで閉鎖されてしまう。

操練所の建物は神戸開港に伴い、イギリス領事館となった。領事館が外国人居留地に移転すると、小学校の校舎として使われていたが、勝が死んだ1899年に取り壊されたというから歴史の皮肉だろうか。

『神戸海援隊』

実は龍馬は「神戸海軍」構想を持っていた。幕府側がつくる操練所と違い、朝廷側のもので、身分にとらわれずに全国から人材を集め、費用は勅命で関西の諸侯に出させるという計画だった。

龍馬が暗殺され、その思いを実現しようとして「兵庫海軍局」をつくるように明治政府に建白したのが長岡謙吉だった。龍馬が長崎で立ち上げた「海援隊」に参加し、二代目の隊長となった男だ。

もう一人いる。これも海援隊に参加していた安岡金馬という男で、新政府では裁判官になったが、職を辞して「神戸海軍局」設置に奔走した。

2人とも志を遂げないまま若くして亡くなり、「神戸海軍」は幻として消えたが、勝、龍馬、長岡たちにとっていかに神戸港が魅力的だったのか、また海軍創設の地としての思いが深かったのか、それを今も物語っているのが神戸のメリケンパークに建つモニュメントだ。「神戸海援隊」と題された彫刻は著名な彫刻家の流政之氏が1991年に制作したもので、龍馬と門下生たちがはるかなる海を望んでいる姿だ。 文=ATOM

【神戸海援隊の彫刻】

写真⑦神戸海援隊の彫刻

【予告】コラム「街・町・まち物語」は、基本的に第1、第3金曜日に掲載します。9月21日掲載の次回は、『白い巨塔』『不毛地帯』などで知られる大阪が生んだ国民的な作家、山崎豊子さんが今月29日で没後5年になるので、どうして終生大阪を愛し、戦争を書き続けてきたのか、ゆかりの大阪の場所を歩いて、そんな思いと素顔に迫ってみる。お楽しみに。

【コラム「街・町・まち物語」の過去記事一覧】

▽第18回「挑戦する銭湯」(18年8月24日)

▽第17回「あなたも戦争体験の伝承者に=福山 琢磨さん」(18年8月3日)

▽第16回「中之島 なにわの心意気」(18年7月20日)

▽第15回「大阪の“いのち”に向き合って54年=濵﨑 寛さん」(18年7月6日)

▽第14回「悲しき海の女王たち」(18年6月15日)

▽第13回「今、図書館が面白い!(関西の最新図書館事情)」(18年6月1日)

▽第12回「中小企業を支援する経営コンサルタント=澤村 文雄さん」(18年5月18日)

▽第11回「「幸・福」に学ぶ 2つのミュージアムを訪ねて」(18年5月11日)

▽第10回「なにわのプチクルーズ」(18年4月20日)

▽第9回「大阪再生は文化の立て直しから=池田 知隆さん(大阪自由大学理事長)」(18年4月6日)

▽第8回「甲子園、ネット裏の”熱闘”」(18年3月16日掲載)

▽第7回「大阪城のレジリエンス力」(18年3月2日掲載)

▽第6回「行列のできる居酒屋=立山 雅夫さん(飲食文化研究所代表取締役)」(18年2月16日掲載)

▽第5回「すみれと桜 タカラヅカの鎮魂歌」(18年2月2日掲載)

▽第4回「出た!大阪・梅田に”亡霊たち”が」(18年1月19日掲載)

▽第3回「お笑い芸人に学ぶ関西の街づくり=吉村 誠さん(元朝日放送プロデューサー)」(18年1月5日掲載)

▽第2回「不思議な『浪華(なにわ)の忠臣蔵』」(17年12月15日掲載)

▽第1回「天才マンガ家は堂島から誕生した」(17年12月1日掲載)

2018.09.07

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