経営Management

経営コラム /

街・町・まち物語(20)「お豊さん」を歩く

2018.09.21

『白い巨塔』『不毛地帯』『華麗なる一族』――大阪が生んだ国民的な作家、山崎豊子さん(1924ー2013年)が逝って今月29日で5年になる。親しい人たちから「お豊」とか「お豊さん」と呼ばれた山崎さんは、大阪を愛し、89歳で亡くなるまで大阪の地を離れることがなかった。新聞記者出身らしく”取材の鬼”とまで言われた徹底した取材と、テーマをとことん追っていく執念はつとに知られている。”闘う作家”であり、一方で”情の人”でもあった「お豊さん」。そのゆかりの地を訪ね、素顔に迫ってみる。

【山崎豊子さん】

写真①山崎豊子さん

『いとはん記者』

お豊さんは「いとはん」だった。豊臣秀吉が大坂城を築いて以来、商業の中心を担ってきた船場では、大店(おおたな)のお嬢さんはいとはんと呼ばれた。生家は創業170年の塩ふき昆布「えびすめ」で知られる老舗昆布屋「小倉屋山本」で、地元船場の小学校を出ると相愛女学校に進む。生家から歩いて10分足らず、大阪市中央区本町にある今の相愛中学・高校だ。「電車通学だといらん虫がつくさかい」と船場のいとはんたちには女中さんやぼんさんのお供がつく通学だったが、お豊さんもその一人だった。

【現在の小倉屋山本の本店】

写真②現在の小倉屋山本の本店

そんないとはんだからサイフを持ったことがなかった。買い物はすべてツケ。京都女子大学の前身の京都女子専門学校に通うようになって初めて持つことが許されたが、それでも小遣い帳をつけさせられ、母親が時々使い方をチェックしていたという。

【相愛学園】

写真③相愛学園

”超お嬢様”のお豊さんがどうして男社会だった新聞記者になったのか。それは戦争である。大阪市北区堂島にあった毎日新聞社に入社したのは戦争末期の1944年(昭和19年)で、若い男たちはみんな兵隊にとられ、記者が払底していた時代だった。もともとは教師志望だったが、軍需工場での勤労動員で大砲の弾磨きばかりやらされ、これといった就職先もなく、たまたま新聞社に入ることができた。

最初は調査部に配属され、翌年に学芸部に異動になる。だが、いとはんは何ごとにもおっとりしている。記事を書くのが遅く、時間をかけてもいい調査モノばかりを書かされた。しかし、この時に調査のコツと面白さを知ったのが、後年の”調査魔””取材の鬼”になったのだから、人生、何が役立つかわからない。

『橋は焼かれた』

上司だったのがデスクの井上靖(1907―91年)だ。筆者も晩年に一度だけ会う機会があった。文化勲章を受け、最後の名作『孔子』を発表した翌年で、亡くなる2年前だった。古巣の毎日新聞大阪本社を久しぶりに訪ねた81歳の老作家は、座るように勧められても断り、杖を横に置いて立ったまま次作の構想を1時間余、筆者ら後輩に熱っぽく語り続けた姿を今も覚えている。

【井上靖展のポスター】

写真④井上靖展のポスター

井上は京都大学で美学を学んだ学者肌で、穏やかな紳士の風貌をしている。だが、お豊さんには厳しい上司だったらしい。対談集の中で「怖かった」と告白している。遅筆のお豊さんがやっと仕上げた原稿を恐る恐る差し出すと、井上は無言で原稿に手を入れ始める。文章の前後を入れ替え、削ったり直していく。あっという間にこれが自分の原稿かと思うように見事に変わる。「ピシッと文章が生きるんです。活字が起きてくるんです」とお豊さん。

敗戦が近づくと編集局内はますます人がいなくなり、井上は3日に一度宿直をやらされたと嘆いている。しかも再三の空襲。「爆撃で自分は新聞社で死ぬかもしれぬと思った」と日記に書いている。そして1945年(昭和20年)8月15日。天皇陛下がラジオで終戦を告げるのを聞きながら「玉音ラジオに拝して」というその日のトップ記事を書いた。

このコラムの第1回は『天才マンガ家は堂島から誕生した』で、医学生だった手塚治虫が風呂敷に自作のマンガを包んで毎日新聞社に持ち込んだ話を書いた。それがこの直後のことで、手塚は、紳士然とした井上デスクと「怖い感じの女性記者」(お豊さん)のことをよく覚えている。

【堂島時代の面影を残す毎日新聞社の玄関】

写真⑤堂島時代の面影を残す毎日新聞社の玄関

終戦から5年後、井上は『闘牛』で第22回芥川賞を受賞し、東京本社の出版局に転勤することになる。学芸部の送別会の後、井上はお豊さんにこう言う。「山崎君ね。人間というのは一生に一回は傑作が書けるんだ。自分の家のことなら書ける。君も何か書いてみたらどうだ」。小説を書きたい気持ちを持っていたというお豊さんをこの言葉が本気にさせた。

学芸部時代の井上は、毎朝5時に起きて執筆し、それから出社していた。それを聞いていたお豊さんは、自分も同じようにする。平日は帰宅後の夜8時半から夜中の1時まで、土曜日は徹夜、日曜日は朝から夜までずっと机に向かった。こうしてデビュー作となる『暖簾』を出すことができたのは7年後。作品は井上に言われた通り、実家をモデルに船場の昆布問屋を舞台にした大阪商人の愛憎ドラマだった。また「橋の下の物乞いにでも意見は聞け」と言っていた井上のアドバイスを終生守り続けた。「井上さんとめぐり合っていなかったら作家になっていなかったと思う」と述懐している。

【暖簾】

写真⑥「暖簾」

2作目の『花のれん』で第39回直木賞を受賞するのは1958年(昭和33年)。大阪の寄席を大きくしていくドラマで、吉本興業の創業者の吉本せいがモデルと言われている。今年春まで放送されたNHKの連続テレビ小説『わろてんか』である。かつての部下の受賞は井上にはよほど嬉しかったらしい。すぐに原稿用紙に次のように走り書きして、速達で送っている。「直木賞おめでとう。しかし仕事の本当の楽しさも辛さもこれからだと思います。橋は焼かれたのだから、もう仕方ない。あせらないで、自分のペースで頑張って下さい」――橋は焼かれた、つまりもう後戻りはできないぞ、そう覚悟して作家になれ。その言葉に従い、お豊さんは作家一本で生きていくことに決め、毎日新聞社に辞表を出す。

『出獄だ!』

56年間の作家生活で書き上げた作品は15作。人気作家としては異例の寡作ぶりだ。それには理由がある。まず調査にたっぷり時間をかける。構想を練る。それから取材が始まるがこれがすさまじい。山崎小説の魅力の一つはリアリティにある。徹底した取材の積み重ねが、あたかもノンフィクションを読むような味わいを生み出しているのだ。

取材が進むと進行表を作る。登場人物の人生の歩みをこと細かに書き込んでいく。やがて細長い絵巻物のような紙に仕上がっていく。

いよいよ執筆が始まる。原稿用紙は普通のコクヨの400字詰めで、最低2度は書き直す。それが出来上がると秘書が「山崎豊子」のネーム入り400字詰め用紙に清書して出版社に渡す。

お豊さんの死後、誰も立ち入らせなかった仕事場を調べると、段ボール箱から取材ノート980冊、120分のカセットテープ5500本、名刺4000枚以上が見つかった。平均で1作200人以上にインタビューしていたというからすごい。

代表作の一つ『不毛地帯』は元大本営参謀の壹岐正が主人公で、戦後抑留されたシベリアから帰国し、大阪の近畿商事に入る。そこでの社内の確執、米国からの戦闘機導入をめぐるライバル商社との闘いを描いたドラマで、実際に起きたロッキード事件を思わせる大作だ。お豊さんが取材に出かけた国は10カ国におよび、377人に話を聞いた。これをサンデー毎日に5年間連載した。原稿用紙で5000枚以上、登場人物は210人というからスケールが大きい。

文藝春秋に4年間連載した『大地の子』は、終戦時に中国に残された日本人孤児の陸一心を主人公にして波乱の半生を描いた。中国人の教師夫婦に育てられるが、文化大革命の中で日本人という出自から差別やさまざまな苦しみを受ける。実の父親と再会して心は揺れるが、最後に中国に残ることを選択するという感動ドラマだ。

この作品はとりわけお豊さんの思い入れが深かった。「命を懸けて書いてまいりました」と言い、「泣きながら取材したのは初めてです」とも言っている。7000人とも1万人ともいわれる戦争孤児たちの人生はそれほどまでに過酷だった。

しかし中国での取材は難航を極める。ついに中国共産党総書記の胡耀邦に会い、直談判に及ぶ。面と向かって「中国の官僚主義は根深く、取材の壁は高くて険しく、真実が見えない」と批判したのだから腹が座っている。しかし、それで全面協力をとりつけることができ、取材が一気に進み始める。

山崎小説に出て来る主人公の男はどれも魅力的だ。言ってみれば男らしい男なのだ。「権力の座にいる人が大嫌い。狡猾な奴も大嫌い。醜悪な奴を書くことを通して人間の本来の正しいあり方を表現する」と話している通り、欲望を隠さない生臭い人間として生きる主人公は、お豊さんに言わせるとみんな「ど根性の男」なのだ。「ど根性というのは、ピンチに遭ったときの処理の仕方だと思うのです。逆境に立ったとき卑屈にならないで、そのときこそ自分自身を十分に発揮するような奴」と説明している。だから山崎作品の主人公は苦闘した揚げ句に必ず敗ける、だがそこから再び……という展開になる。

タイトルにこだわり続けたことでも知られた。「連載小説は1回から3回までが勝負」と言っていたが、タイトルへの力の入れ方も半端ではなかった。”作品の命”と考えていた節がある。しかも作り方は見事だ。『女の勲章』『白い巨塔』などは一見、結びつかない言葉をつなげたり、流行語にもなっている。阪神銀行頭取の万俵大介を主人公にした銀行再編ドラマ『華麗なる一族』は、初めは『華々しき一族』だった。『不毛地帯』にいたっては『大いなる道』『白い大地』『輝ける大地』『天と地と』『七つの海』と取材ノートにはいくつものタイトル案が並んでいた。ああだこうだと延々と呻吟しながら決めていたのだ。

【「華麗なる一族」のDVD】

写真⑦「華麗なる一族」のDVD

執筆が始まると毎朝きっちり10時に机の前に座り、午前1時までの間、最低12時間は書き続けることを自らに課していたという。もちろんいつも筆が思った通りに運ぶわけではない。むしろ苦しみながら言葉を紡ぎ出す日の方が多かった。「私は身心ともに駄目になるでしょう」とか「原稿に追いまくられ、生き地獄のような苦しみです」と弱気の言葉も吐露している。だから原稿をすべて脱稿できた時、書斎を「牢獄」と呼んでいたお豊さんは、「終わった、終わった、出獄だ!」と踊るようにして大きな声で叫んだという。 文=ATOM

【予告】コラム「街・町・まち物語」は、基本的に第1、第3金曜日に掲載します。10月5日掲載の次回は、「お豊さん」の続編です。後半生に「戦争3部作」に取り組んだのはなぜか。未完を覚悟しながら死の直前まで絶筆『約束の海』に挑んだのは理由とは――。お楽しみに。

【コラム「街・町・まち物語」の過去記事一覧】

▽第19回「幻の「大坂湾戦争」を追う」(18年9月7日)

▽第18回「挑戦する銭湯」(18年8月24日)

▽第17回「あなたも戦争体験の伝承者に=福山 琢磨さん」(18年8月3日)

▽第16回「中之島 なにわの心意気」(18年7月20日)

▽第15回「大阪の“いのち”に向き合って54年=濵﨑 寛さん」(18年7月6日)

▽第14回「悲しき海の女王たち」(18年6月15日)

▽第13回「今、図書館が面白い!(関西の最新図書館事情)」(18年6月1日)

▽第12回「中小企業を支援する経営コンサルタント=澤村 文雄さん」(18年5月18日)

▽第11回「「幸・福」に学ぶ 2つのミュージアムを訪ねて」(18年5月11日)

▽第10回「なにわのプチクルーズ」(18年4月20日)

▽第9回「大阪再生は文化の立て直しから=池田 知隆さん(大阪自由大学理事長)」(18年4月6日)

▽第8回「甲子園、ネット裏の”熱闘”」(18年3月16日掲載)

▽第7回「大阪城のレジリエンス力」(18年3月2日掲載)

▽第6回「行列のできる居酒屋=立山 雅夫さん(飲食文化研究所代表取締役)」(18年2月16日掲載)

▽第5回「すみれと桜 タカラヅカの鎮魂歌」(18年2月2日掲載)

▽第4回「出た!大阪・梅田に”亡霊たち”が」(18年1月19日掲載)

▽第3回「お笑い芸人に学ぶ関西の街づくり=吉村 誠さん(元朝日放送プロデューサー)」(18年1月5日掲載)

▽第2回「不思議な『浪華(なにわ)の忠臣蔵』」(17年12月15日掲載)

▽第1回「天才マンガ家は堂島から誕生した」(17年12月1日掲載)

2018.09.21

建設ニュースおすすめ情報

1週間の動きを短時間で振り返る!

無料メールマガジン登録

メールマガジン登録

サイトで配信した記事のタイトル(見出し)を、分野別とエリア別に分けて1週間分まとめて確認できる便利なメルマガです。PC/携帯に対応!

登録してみる

月2,000円(税別)で、一歩進んだ情報を

建築ニュース有料会員

建築ニュース有料会員

不動産や民間工事の最新情報など、毎日配信される建設ニュースの全記事を、月2,000円(税別)でお読みいただけます

有料会員に申し込む